金子みすゞの詩と出会い魅了された人はとても多いのではないでしょうか。その魅力は奥が深くて簡単に表現できるものではありませんが、私は、みすゞの詩を読むたびに、真っ直ぐな感性、命に向けられた一途な愛情、飾りのない表現 といった唯一無二の ”詩のちから” を感じて、自分自身の感性が目を覚ます思いがするのです。
そんなみすゞですが、昭和5年、26歳の若さで自ら命を絶ちました。
詩の世界に見られる愛、思いやり、温厚といったイメージと相反する生き方に戸惑いの感はありますが、不遇な環境だったからこそ、紡ぎだされた愛の言葉が作品群を貫いているのかもしれません。
詩の世界に見られる愛、思いやり、温厚といったイメージと相反する生き方に戸惑いの感はありますが、不遇な環境だったからこそ、紡ぎだされた愛の言葉が作品群を貫いているのかもしれません。
写真:山口県観光サイトから引用
短かかった人生、様々な不遇もありながら500編を超える作品を残したみすゞ。ただ、その作品集が世に出版されるまで約半世紀の年月を経なければなりませんでした。
今、こうして金子みすゞの作品をじっくり味わえるのは、後年、みすゞの詩の魅力を発見し、出版までこぎつけた人々の情熱があったからこそです。
今、こうして金子みすゞの作品をじっくり味わえるのは、後年、みすゞの詩の魅力を発見し、出版までこぎつけた人々の情熱があったからこそです。
この令和の世にあっても、紹介される機会の多いみすゞの作品。約100年前に作られた詩の世界観が、現代に生きる私たちに新鮮な味わいと気づきを与えてくれます。こんな素晴らしい感性がずっと未来へと継承されていくことを願います。
みすゞの作品はどれも素晴らしいのですが、今日は、代表的な2編を載せたいと思います。
こだまでしょうか
「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。
そうして、あとで
さみしくなって、
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。
《こだまでしょうか、いいえ、誰でも。~金子みすゞ詩集選~ :宮帯出版社 から引用》
さびしいとき
私がさびしいときに、
よその人はしらないの。
私がさびしいときに
お友達は笑うの。
私がさびしいときに、
お母さんはやさしいの。
私がさびしいときに、
仏さまはさびしいの。
《こだまでしょうか、いいえ、誰でも。~金子みすゞ詩集選~ :宮帯出版社 から引用》

詩は、それぞれの読み手が純粋に ”感じる” ことが大事だと思うのですが、私は、みすゞの詩を一行一行をたどるごとに、どこか心地よいリズムにあわせて心が温かくなってくる感覚があります。今回は2編とも、「傷ついた心に寄り添ってくれる誰かの存在」を肯定している詩だと、私は感じます。
誰しも、挫折、孤独、絶望といった苦しい状態にあっても、どこかに希望の光を見出して ”今より良くなりたい” と願っています。
みすゞの詩は柔らかい言葉で表現されていますが、たとえ、”人の心”によって自分が傷つけられたとしても、それを救ってくれるのは、最後はやっぱり”人の心”しかないのだ という強いメッセージを感じます。
そして、人間が必要としているのは最後は ”愛情” なのだと シンプルな気持ちに立ち返ることができます。
あなたは、どのように感じたでしょうか。
よければ、他のたくさんの詩にも触れてみてください。
よければ、他のたくさんの詩にも触れてみてください。
金子みすゞ解説動画 【長門市観光コンベンション協会「ななび」から】
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